ちゃんと悲しんでこそ、次にちゃんと前に進めるんだと思う。大切なあの子(動物)が死んだときのこと。

何年も前。
あの子が死んだときのことを思い出す。
人間の子ではない。動物だ。
私にとってはかけがえのない、大切な子だった。


病院で手を尽くす時期も過ぎ
家で死期を待っている状態だった。
その動物としては、たぶん長生きだったので
寿命だったのだろう。


でも私は、まだ生きていて欲しかった。
その子は、私の話し相手だったのだ。
人にはなかなか話せない悩み事も、
その子には話すことができた。


何も言わない、鳴かない、動きも大きくはない。
分からない人の目には、反応の薄い子だったろう。
でも私には、十分だった。


いろんなことで、とてもつらい時期もあった。
その子の存在のおかげで、乗り越えてこれた。
その子は、神様から私へのプレゼント。
語りかける私の言葉は、
そのまま「祈り」だったのだと思う。


そんな大切な子も、いよいよ寿命を迎え
ほとんど動かなくなった。
動かないが、息はしている。


毎日、飛ぶように会社から帰った。
息をしているのを確認して、ほっとした。
ほっとすると同時に、胸に何かが突き刺さった。


苦しくて、つらいんじゃないの?
息をするのも、苦しいんじゃないの?
早く、楽になりたいんじゃないの?
私のために、頑張ってくれてるの?


何日もそんな日々が続き、私はそのうちに
「会社から帰ったら死んでいる」という状態を
願うようになった。
その子のためにも、そして私のためにも、だと思う。


とうとうその日はやってきた。
帰ると、冷たくなっていた。
悲しい。
と同時に「全てが終わった」という事実に
ほっとしている自分がいた。

 


以上は、もう何年も前の出来事だ。


今日、なぜ書いているのか。
「これが今、一番表現したい自分の気持ち」
だからだ。


最近、ブログ書きが少々苦しかった。
「何かを生み出すことを書かねば」
「今後のためにも、前向きな記事を書かねば」
という縛りを自分にかけたからだ。


それが苦しいのは、現時点で私には、
そういう「腕も知恵も」ないのかもしれない。
だから、敗北を素直に認めて(?)
ともかく今日は「一番思うことを、そのまま」
書くことにした。


今日の記事は、ちっとも前向きではない。
特に何も生み出さない。
今後の私の役にも立たないだろう。


でも、現時点の私が、一番表現したいことだ。
今でも、この時のことを思い出すと泣いてしまう。
書きながら、泣いた。


この子は、あまり一般的な動物ではないので
当時「人が理解してくれるとも思えないし」と
無意識に心のブレーキがかかったと思う。
だから「悲しみ」を
ちゃんと表現できなかったかもしれない。


表現できないから、前向きの呪縛のもとで、
ムリに笑顔を作り続けたかもしれない。


読んでくれた方にただひとつ、
私が言えることがあるならば。


あなたにとって大切なものを失って悲しいときは、
ちゃんと悲しんでください。
あなたの悲しみは、あなたの大切な悲しみ。


周りの理解度とか、自分の表現力の巧拙とか、
そういうのはいいんです。


ちゃんと悲しんでこそ、
次にちゃんと前に進めるんだと思う。