自分の過去ブログを見て、どんどん読み進んでしまうことがある。魅力的なのだ。
過去の自分に、私は少し嫉妬する。
そこで今回は、どんどん読んでしまった過去ブログのスタンスに少し寄せて書いてみることにする。
年末だし、ね(?)
私は、最近、こんなことを言った。
ここから
私、「教会」ってある意味、いわゆる「世の中」よりも酷な場所ではないかと思ったんです。
「生きづらい」というか。
教会では、世の中のことを、いろいろと悪いことに満ちているとか、そういう文脈で語られることもあります。
だから教会はとても「聖」であり、とまでは言いませんが。もともと「罪人(つみびと)」が集う場所が教会ですからね。
でも結果的に、世の中は大変なことに満ちていて、という文脈で語られることは多いと感じます。
でもね、その教会の方がむしろ大変だったり、 人にとって負荷のかかる場所になり得ると思いました。
というのは、教会では、人の喜びを共に喜ぶということが奨励されます。
けれどもその喜びって、本来はあくまでその個人の喜び。
それを自然に他の人が同じように喜べるかどうか、ということは関係ありません。
もしかすると、喜ぶことが前提とされること自体が心の傷に触れるような体験だ、ってこともあり得るわけです。
でも教会である以上、共に喜ぶ、少なくともその振る舞いをすることは求められます。暗黙のうちに。
さらに振る舞いだけでなく、「神は人の心を見る」とかいうプレッシャーも与えられるわけですが。笑
あとは、何かについて「祈りが聞かれた」とかそういう文脈で語られることも多いです。
祈りが聞かれてこのようになりました、それは確かにめでたいことだし、本人にとって嬉しいことでしょう。
でもそれだって、同じようなことをずっと祈っていても全く叶えられないとか、そういったこともあるわけです。
祈りの深さや大きさを測っているわけではないとは言っても、祈りが聞かれたという言葉がある以上、人の祈りを測るような意味はどうしても含まれてくると思うんです。
本来はよい言葉でも、時には人を縛るものになる。
そうすると、人によっては、余計生きづらくなったり、負荷のかかる場所になったりもする。
こういうことは、誰かが悪いというより、「そうなりやすい構造」として起きているように思います。
問題は、こういう構造に、教会にいる人がどれだけ気づいているかということ。
ずっといる人は、意外と気がつかないのではないかと思います。
または、私のようにずっといながら気づいていても、気づかないような顔をして過ごす。
無理してそうしているという意識はなく、自然とそのように振る舞うようになります。
すると、余計にそういった構造や人の本音というものは周りにも伝わりにくくなります。
伝えたところで、「祈りがなんたら」(聞かれたとか足りないとか)に関連付けて語られるとめんどうだしなぁ、と感じたりします。
最初に例に出した話で、喜びのお知らせがあったような場合。
教会ではないところなら知らんぷりできるかもしれないし、悪く言う人たちだっているかもしれない。
これは、私が悪く言いたいかどうかってこととは別問題ですが。
あとは、仕事なら仕事として片付けていくことができます。
でも教会って、そういう割り切りがなかなかしづらい場所ではないかと思うんです。
と、こんな話をした。
私はクリスチャンで、教会に毎週欠かさず行っている。
そういう人は、たぶん、あまり、こういう文章を公にしない。
でも、ここにひとり、こういう人がいるということは、どこかにも似たような誰かがいる。
そう私は考える。
そして、そんなモヤモヤやいろんなことを抱えながら、共存しながら、それでも教会に行き続ける。
自分なりの楽しみや喜びを見つけたり作ったりする。
大喜びで毎週の奏楽をする。
人にも喜ばれてたりする。
これだって、人間のひとつの姿ということ。
人間の構造は、矛盾とおもしろさに満ちている。
神にある広がりを実現しながら、軽やかに前に進んでいきたい。
会社や職場も、ひとつの「場」ですね。
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