ピダハン、という本を借りてきた。
前に読んだことがあり、また読みたくなった。
著者は、言語学者で宣教師だ。
ピダハンという人たちが住む地域に宣教に行く。
ピダハンには、過去や未来の概念がない。
「今、ここ」のみに生きている。
過去がないので(それだけの理由ではないけれど)神という概念もない。
「ないもの」を、ないままに生きている人たちに説明するのは難しい。
宣教もなかなかできない。
それどころか、著者は気づいてしまう。
「この人たちは、神なんか知らなくても十分幸せに生きてるじゃないか!」
そして著者は、自らも信仰を捨てる、という話だ。
(記憶だけで書いたので、かなりおおざっぱな説明です。)
私は、過去や未来の概念がある世界に生きているし、神を信じてもいる。
ピダハンの世界はよくわからない。
わからないのに、なぜか惹かれる。
「十分幸せに生きている」という点だと思う。
そもそもなぜ、キリスト教の世界では、他の国や地域に宣教に行くのか。
「全世界に行って、述べ伝えなさい」との聖書の言葉が根拠だとは思うけど、考えてみたら不思議な話だ。
もし、神を信じていて幸せではなく、それでも「神を信じたほうがいいですよ」や「神を信じましょう」と伝えるとする。
伝えた相手が、自分の人生を十分幸せに生きていたら?
幸せではない人の発した言葉に、説得力はなさそうだ。
信仰をもち、人にも伝えるということは、「自分の言葉に説得力をもつように生きる」義務というか権利というか、生じるのだと思う。
厳しいことだし、なかなかできない時もある。
だからおもしろいともいえる。
同時に、「神(なんか)知らなくても十分幸せに生きているピダハンに惹かれる気持ち」もそのまま受け止め、おもしろがっている自分がいる。
そして、そういう私をそのままご存知の神様がいて、、、
という構造がまたおもしろい。
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