人には、◯◯に向かって祈る、という対象が必要なのではないか。

 

道にある祠など祈りの対象に、頭を垂れて目をつぶって誰かに何かを祈っている人の姿を見ると、いつもそう思う。

 

そのように、人はつくられているのではないか。

 

私は先日、動いている時ほど神の前に出たくなると書いた。

時間を取り分けて、神と共にいる時をもちたくなる。

https://blog.gamachan.com/entry/2021/03/03/210241

 

動いている時というのは、挑戦、または試練の時などもあるだろう。

 

神にすがらずにはいられない。

自分の思うこと、やっていることをすべてお話して、平安が欲しい。

 

神にすべてをお話するというのは、重荷をすべておろすということ。

 

心を軽くして、エネルギーを補給し、満たされて、毎日を元気に生きていけるということ。

 

そのために、私は今も、今日も、神の前に出る。

そして、神の前で、心を遊ばせよう。

 

 

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

新約聖書 ローマ人への手紙8章26節

 

 

✴️フェイスブック
https://www.facebook.com/profile.php?id=100009953641774
✴️ツイッター
https://twitter.com/BufoTel
✴️note
https://note.com/gamachan