100人いて、100人に喜ばれたら、そりゃいい。ただ、自分の心が納得していなかったらあまり意味はない、と思っている。

いつ頃からか、何かを「出す」と、
自分の予想を超えて喜ばれることが
増えてきた。

「出す」とは、
発信もそうだし、
サービスもそうだ。

私にしてみると
「なぜ自分はそれをやるのか」
うまく説明できないことも含む。


喜んでくれる人が増えるのは、
うれしい。

と同時に、私は常に、
自分の心の納得感に
照らし合わせる必要性を
感じている。


私にとって
自分の心の納得感とは、
神のみこころにかなう道か、
ということだ。

この感覚は、おそらく
神を信じない人には
なかなか分かり得ないものだろう。


また、「神」とひとことで言っても、
私の想定する神と
他の人の想定する神とでは
違っていたりする。

そうすると、
「あ~わかるー」と言われても、
「いや、たぶん違うよね…」
と、言わざるを得ない。

そこはもう、仕方ない。


そして、私は、
神が私をこの地上の命として
作ってくださった、

その使命を果たせているだろうか、

神から受けとるばかりではないだろうか、
私は捧げることができているだろうか、

という思いと共に、
心の納得感が生まれてくるのだ。


神から受けとるのも捧げるのも、
強制的な何かでもなければ
きまりごとでもない。

自発的な、自由な喜びに満ちたものだ。


私は今そうやって
いろんなことを「出して」いるから、

周りの人が喜んでくれるのも
とてもうれしく受け取り、

また新たにどんどん出そうと
試みるのではないだろうか。