「なんか」と「何者か」の両方をもつ、あの人たちに会いに行きなさい。私の「なんか」がそう言った。

私は、相手が何者か分からなくても
コミュニケーションがとれる。


何者か。
何の仕事をしているか、とか、
どんな生活をふだん送ってるか、など。
その人が何者であるのかをあらわす
いろんなもの。


何者か分からなくても構わない。
その場にいるその人が
危害を及ぼす危険などがないのなら、
別に分からないままでも構わない、
という思考がある。


その場にいる目的でも分かれば、
まぁ、いいんじゃないの、と。


楽しみに来ました、とか
雰囲気を味わいに来ました、とか、
それでもういいんじゃないの、と。


それをベースに
コミュニケーションとれば
いいんじゃないの、と。


しかし。


そうではない人のほうが
もしかしたら多いかも。


相手が何者なのか分からないと
コミュニケーションがとれない、
または、とりづらいと感じる、


そういう人のほうが多いのではないか。
突然気づいた。


ずっと当たり前に
ウン十年やってきた。
全然気づいていなかった。


当たり前でもなかったんじゃね?!


もしかしたらすごい強みなんじゃね?!



しかし。


この強みは反転すると、
思わぬ事態が起き続ける。


本人の自覚がないままに。


たとえば私は、自分のプロフィールを
つくらない。
とんでもなくつくらない。


自分が何者であるか、を
つくらない。


たくさんの文を書いても、
どんな発信をしても、


自分が何者であるか、を
分かりやすく他者に示すようには
なかなか書かない。


書こうとして、
いつも後回しにする。


これはふだん、要らないからだ。


自分に対しても人に対しても。


人は私を「なんかいい」とよく言うし、
私が人を判断するのは
「なんかいいか、なんかよくないか」


何者か、ではなかった。



さて。


私は、「何者か」をつくるつもりだ。
つくりたくなった。
その時期だと思う。


「なんか」で構成されている自分に
「何者か」をつくる。
名古屋に行ったのも、そのためだ。



そうか。
あなたは「何者か」をつくりたいんだ?


それならば、
あなたが「なんかいい!」と思った
「なんか」と「何者か」の両方をもつ
あの人たちに
再び会いに行きなさい。


そんなふうに
私の「なんか」が言ったんです。


ガマ「…なんか、この記事
分かりましたかぁ?」


…笑!